ただのメモ。

悩みとグチと苦労と不幸と幸せは、気持ちの問題。それぞれに相関はないんだよ。

少し見えた、自分の闇。

おはようございます。keroyonです。

今「老子」を読んでます。一文一文こころに染み入ってくる。こんなにすっと入ってくる老子ってなんだろ…。

言っていることは、「上善水の如し:水のようにしなやかに生きるのが良い」みたいなことなんだけど、(ざっくりしすぎ?…。)なぜこれが、今のkeroyonのこころに染み入るのか、考えてみた。

 

結局、人間関係トラブルの件で向かっている結末が「自分の本意ではない!」ということ。

 

だから、人生の川の中で、流れを邪魔する石のように思ってて、でも「それをうまくかわしたい。」「なんとかやりすごしたい」と思っている私の中の打算。

 

このトラブルの結末にはcontinueかquitしかない。
自分の希望はquitなんだけど、「quitに立ち向かう勇気もない」ってことなんだよね。

 

結局、立ち向かう勇気がなくて現状をなんとかやり過ごそうとしている、ズルイ人間、もといカエル。

 

そこで思い出したのは「一休宗純」だった。

はじめて一休さんを見たのは子供の頃のアニメだったけど、あれはまあいいとして。

印象に残ってるのはNHK Eテレの「オトナの一休さん
オトナの一休さん - NHK

それから、NHK知恵泉でも放送があった。

https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20170801-31-29315

 

簡単にエピソードを調べるなら、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/一休宗純

http://katatakankokyokai.com/193/3_2.html

他にもたっくさんあった。

 

番組や上記サイトからの受け売り。

「どこから来たか、どこで過ごしたか」という、洞山三頓の棒の公案に対し、
「有漏路より無漏路へ帰る一休み、雨ふらば降れ風ふかば吹け」
と答えて得度を得た一休さん
激しい修行や自殺未遂もしてるけど、その辺りの詳しい情報は、割愛。

男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。

wiki(180518)より

 

することはしながら、でも形式に縛られず、というより形を重んじる寺院の体制への反対派の姿勢を貫き、自分の価値観で?好き放題振舞っていたみたい。遊郭にもいくし。

 

老子は「流れに身を任せやり過ごす」だけど、一休宗純は「やり過ごす」だけでなく、超越して反対側まで突き抜けてる!

 

老子観も勝手なkeroyon解釈だけど、一休さんは欲望もなにもかも含めて自分を受け入れてるんだなぁと思った。

 

気持ち的にはquitだけど、現実考えてcontinueも、なんでもありなんじゃないか。

一休さん的には、もうなんでもありあり!

そんな気持ちにさせてくれた一休宗純
これからは

「有漏路より無漏路へ帰る一休み、雨ふらば降れ風ふかば吹け」

これを心に刻もう。

と、ふと思った昨日。
体調不万全で、運転が微妙だったけど、事故らなくて本当に良かった…。

 

ではでは、またね。じゃねー🍀。

 

* 有漏路、無漏路の誤記を訂正しました…。一番大事なところなのに(>_<)。