最近のあけみさんの記事に触発されました。
これ、激しくそう思います。
誰にも共感されない暮らしをしてると人の心は狂う。
— あけみダイナミック海の味覚鍋(帆立出汁) (@akemi_0615) 2019年11月28日
先日の勉強会での、小中学生向けアンケートに
「心を打ち明けることができる人はいるか。どこに?」という質問がありました。
SNSの中でも、いきられたらそれでいい。 - keroyonの『続・日々精進』日記
こういう質問があったのだけれど、その隣にね、
「自分の居場所はあるか」という問いもあり、
「心を打ち明けることができる人はいるか」という例の質問と、クロス集計した結果が興味深かった。
もちろん、一番いいのは「居場所があって、打ち明けられる人がいる」。
一番救いがないのが、「居場所もなくて、打ち明けられる人もいない」。これは明らか。
「居場所」と「人」どちらが大切だという結論だか、わかりますか?
わかるよね…
「人です」
「居場所がなくても、打ち明けられる人がいる」人の方が、生きてる満足感が高かったのです。やはり、人はつながらないと駄目なのよ…。そしてあけみさんのツイートが、余計に心に響いたのです。
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こちらの記事の、
もう誰に相談するのも恐ろしいので、なるべく人に頼らず生きていきたいと思ったりもする。そもそも私は今まで頼り過ぎだったのかも知れない。
(1)「人に頼らず生きていきたい」に激しく同意するのと、
諭すようなコメントが付くことがありますが、…そのたびに私は自分の性格の悪さと無知さと低能さに脳を焼かれてさらに脳が小さくなってしまうかのような感覚に襲われます。…
ですがここは私のブログなので、…多分これからも愚痴を書くと思います。…ぜひスルーをしてください。…
(2) ここも。だまって静かに一人で抱えてると、膨れてきちゃうのです。
で、たまに愚痴を吐き出すと、もれなく(1)へ戻る…嫌なすごろくのようなもの。
これは「謙虚」とかそういうレベルのものではなく、
生きているだけで必死といった様相の1か月を過ごしている。
こういう類のものなの、私もです。
「(あけみさんと)同じだ。共感できる!」と書いてますが、勝手に私が同じと思っているだけで、あけみさんには「余計なお世話」の可能性もあります。そうだったら謝ります。申し訳ありません。
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あけみさんがこちらで、自分の悩みを事細かに考察されていたので、
私も及ばずながら考えてみました。
私がこんなに自己肯定感がぐらぐらしているのは、思考や判断基準が普通の人と異なることからくるものと思われます。思い当たるところをかきます。
- 両面表のような性格は、表と裏の境目をどこにしたらいいのかわからないから。
- 人はみな生き終わるんだよ。人生全うした最後のお葬式はなぜ悲しいの?がんばって生きて終わったのだから、晴れ晴れと見送ってはいけないの?
- わからないから聞くのに、「わからないとは何事だ!」って怒らないでよ。
覚えてることをすこしだけ書いたけれど、こんな思いは、リアルには絶対出しちゃいけないのだ。こんなことを生まれてからウン十年、ずっと積み重ねてきたので、自己肯定しろといわれるのが難しい気がしています。私が「いい」と思うことはほぼ違うのだから。
逆に私が「こう思う」ということは、普通の人には「新たな視点」ととらえられることが多い気がしています。珍獣でも見つけたかのようにw。
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リアルじゃ超超少数派だと、前回の勉強会で思い知りました。ブログやツイッターの方が、まだ生息率は高くてマシなのです。それでも、辛い時はつらいね…w。
生き方にもいろいろあるなとおもった今朝。
楽しく生きる、まじめに生きる、うわべで生きる、本音で生きる、
他の人と同じように、楽しく生きたいだけなのにね。
どう生きていったらいいのかもわかりません。
これは脳みその故障なの?
keroyon