ただのメモ。

悩みとグチと苦労と不幸と幸せは、気持ちの問題。それぞれに相関はないんだよ。

正道を生き切った人。

こんにちは。keroyonです。

もう、なんの朝ドラか忘れちゃいましたが(朝ドラだったことは覚えている)、

闇市のお世話にならないといきてなんていかれないよ」みたいなセリフがあって、新聞記事に「大学教授?、配給以外に手をつけず、餓死」みたいな?記事を家族で見ているシーンがあったんですよね。←ほぼうろ覚え。

 

すごい人がいたんだなぁと思ってググってみた。

ざっくり二人がヒットしました。もっといるのかもしれないが。

 

亀尾英四郎 - Wikipedia(180625引用)

亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3月10日 - 昭和20年(1945年)10月11日)は日本のドイツ文学者。元東京高等学校教授[1]。

 

経歴

鳥取県米子市糀町出身。家業は足袋製造業。亀尾定右衛門の四男[1]。
米子中学校、岡山の六高を経て、大正10年(1921年)、東京帝国大学文学部独文科を卒業、同大学研究室副手となる。
ドイツ文学者として早くからゲーテに心酔し、その貴重な入門書とされるヨハン・エッカーマン著『ゲエテとの対話(英語版)』を完訳して世に問うたのは大正11年(1922年)、27歳のときである[2]。
大正14年(1925年)東京高等学校教授となる。
昭和20年(1945年)10月11日、栄養失調死した。


人物像

昭和20年(1945年)10月11日、亀尾は栄養失調死した。この事件を新聞は次のように報道した。
「“闇を食はない”犠牲、亀尾東京高校教授の死過日、静岡県下で三食外食者が栄養失調で死亡したが、再びここに一学者の栄養失調死がある。東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎氏の死である。この度は知名人の死であるだけに社会に大きな波紋を巻き起こしつつある。大東亜戦争が勃発して食糧が統制され、配給されるやうになった時、政府は“政府を信頼して買出しをするな。闇をするものは国賊だ”と国民に呼びかけた。同教授は政府のこの態度を尤もだと支持し、いやしくも教育家たるものは表裏があってはならない。どんなに苦しくとも国策をしっかり守っていくといふ固い信念の下に生活を続けてゐた。家庭には操夫人との間に東京高校文乙二年の長男利夫君以下、四歳の覚君まで六人の子を配給物で養ってゐた。だが、庭に作った二坪の農園では如何ともすることが出来なかった。六人が三日間で食べる野菜の配給が葱(ねぎ)二本。発育盛りの子供たちに少しでも多く食はせんとする親心は、自己の食糧をさいて行くほかに方法はなかった。遂に八月末、同教授は病床にたふれた。近所に住むかつての教へ子の一人が最近にこのことを知って牛乳などを運んでゐたが既に遅く、去る十一日、遂に教授は死んでしまった。」(十月二十八日付毎日新聞)[3][4]。

 

山口良忠 - Wikipedia(180625引用)

山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年11月16日 - 1947年10月11日)とは、日本の裁判官。佐賀県出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した事で知られる。

来歴・人物
1913年(大正2年)、佐賀県杵島郡白石町に、小学校教師の長男として生まれる。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。1942年(昭和17年)に東京民事地方裁判所に転任後、1946年(昭和21年)10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。この部署では、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。

食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いにより、1946年(昭和21年)10月初め頃から闇米を拒否するようになる[1]。

山口は配給のほとんどを2人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した[2]。義理の父親・親戚・友人などがその状況を見かねて食糧を送ったり、食事に招待するなどしたものの、山口はそれらも拒否した。自ら畑を耕してイモを栽培したりと栄養状況を改善する努力もしていたが、次第に栄養失調に伴う疾病が身体に現れてきた。しかし、自分が職を離れたら「担当の被告人100人をいつまでも未決でいさせなければならない」ことになると療養も拒否した。そして、1947年(昭和22年)8月27日に地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決を書いたあと[3]、やっと故郷の白石町で療養する事となる。同年10月11日、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のため33歳で死去した。

死後20日ほど経った11月4日に、山口の死が朝日新聞で報道され、話題を集めた。

なおその自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと考える者もいたが[4]、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下す事が多かったと言われる[5]。

この事件から、闇米を食べなければ生きて行く事それ自体が不可能であり、食糧管理法それ自体が守る事が不可能な法律であったという意見もあり[6]、食糧管理法違反事件ではしばしば期待可能性・緊急避難の法理の適用が主張されたが、裁判所によってことごとく退けられていた[7]。

食糧管理法を遵守して餓死した者として、山口の他には東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎[8]、青森地裁判事保科徳太郎[9]の名が伝えられている。[10]

 

昨日の曽参もそうだけど、こういう信念を貫き通せるような人になりたい。
人間関係、面倒なこといろいろあるけど、信念を曲げるくらいなら一人でこっそり行く。

keroyon