親愛なるラフマニノフさま
あなたは、1873年ロシアで生まれたんですね。
両親は貴族の家系の出身で裕福だったけど、あなたが生まれたときには既に没落してて、9才で破産で家族で家出。大変でしたね。
でもあなたは才能豊かだったから奨学金を得て、ペテルブルグの音楽院に入学したのに、あなたは「教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第」??
その空気の読めなさ。かわいいわね。
奨学金止められちゃうし退学させられちゃって。
母を困らせるような困ったおこちゃまだったのね。
母は仕方がないので、従兄弟の音楽家ジロティに相談し、モスクワ音楽院で勉強することに。
モスクワ音楽院のピアノ科は、スクリャービンと首席を分け合ったり、作曲科も優秀な成績で卒業。才能は溢れすぎてたんだ。
ピアノ、作曲、指揮と順風満帆だったのに、1895年 指揮者のグラズノフのせい?であなたの「交響曲第1番」の初演が失敗。
心中お察しします。これでこころ病んじゃったのね。
このころはロシア帝国の専制体制が動揺している時代、
民俗色豊かな「だったん人の踊り」のボロディンや
「展覧会の絵」のムソルグスキー、
「シェエラザード」のリムスキーコルサコフ
みたいな、少し土臭い位の音楽がもてはやされるような時代だったから、貴族出身で帝政ロシアを彷彿とさせるロマンティックなあなたの音楽は、民衆には受けが悪かったのも想像に難くない。
もう少し前に生まれていれば、また違った評価だったかもね。時代が悪かったわ。
でもこの病んでる期間に、チェーホフやトルストイと出会ったりして、豪華だなぁ。
どんな話をしたんでしょうね。
その後、心配する友人たちの勧めで1900年にダーリ博士の催眠療法を受け、回復?。
有名なピアノコンチェルト2番を作曲し、自身でピアノを指揮を、いとこのジロティが指揮を務め、大成功を収めるのね。
本当にこの曲はいい曲だもの、当然よね。
その後結婚、長女も生まれ、ボリショイ劇場の副指揮者に就任、
あ、でもあなたの細かい性格の指揮指導は、オーケストラからうざがられていたみたいよ。余計なお世話だけど。
そんな時、不幸な事件、『1905年1月「血の日曜日事件」(労働者が平和的に皇邸に向けてデモをし、政府軍が発砲、労働者側に多数の死者が出た)』が発生、
あなたも「自由芸術家宣言」に署名したために、政府から要注意人物と目をつけられ、ドイツへ移住することに。
ドイツでの生活は充実していたようでよかったです。
そこであの交響曲2番を作曲、自身で指揮をし大成功をおさめたのね。
交響曲1番のリベンジができて、さぞかし嬉しかったことでしょう。2番もいい曲ですものね。特にあの3楽章は秀逸。涙物です。
ピアノコンチェルト3番は、1909年のアメリカ演奏旅行で、マーラーの指揮、自身のピアノというゴールデンコンビで演奏会。
是非聞きたかったわ。神経質なマーラーとあなたの競演、さぞかしオケは面倒くさかったことでしょうね。(プロだからやると思うけど)
その後ドイツからロシアに拠点を戻す(1909-1917)けど、ソビエト連邦の成立など国内情勢の不安定化により1918年にアメリカへ移住するのね。
ドヴォルザークもそうだったけど、異なる文化圏で生活するっていうことは、創作活動にはストレスになるようね。
アメリカへ移ってからはこんな逸話があるみたい。
これは多忙な演奏活動のために作曲にかける時間を確保できなかったのみならず、故郷を喪失したことにより作曲への意欲自体が衰えてしまったためでもあった。
同じロシアの作曲家、ピアニストとして旧知の仲であるニコライ・メトネルになぜ作曲をしないのかと尋ねられると、
「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」ことを理由に挙げたという。by Wiki
故郷をでたあなただったけれど、ソビエト連邦がナチス侵攻を受けたときには、政府を応援するためにチャリティーコンサートを開催したりしたのね。
ほかの亡命ロシア人から距離を置いていたことで、スターリンから帰国を促す計画があったそう。
さぞ帰国したかったことでしょう。
でも帰国はかなわず、1943年3月28日がんで永眠。その二日前にソ連より「70歳誕生日祝電」をもらうなんて。
本当にドラマのような人生だったのね。
そうそう、あなたはマルファン症候群で、身長は2m近くあり、指も、ドから一つ上のドの上のソ位まで届くような長い指だったそうね。
そんなあなたが作曲した曲を、普通の人がピアノで弾くのは相当大変らしいわよ。罪深いわね。私はピアノじゃないからいいけど。
ただ、マルファン症候群だと合併症もあって短命な方が多いのに、あの時代で70才まで生きることができて本当によかったわ。
大変な人生だったと思うけど、長生きしてたくさんいい曲を残してくれてありがとう♪
keroyon
※オケ目線なので、ピアノ曲ほかは割愛しています。
※参考文献を参照しましたが、妄想・脚色を含んでいます。
参考文献(すべて18/7/5参照)
「ラフマニノフ 音楽とその生涯」レクチャー・コンサート(通年) | アルス東京
セルゲイ・ラフマニノフ - Wikipedia
ロシア帝国の歴史 - Wikipedia
youtubeより(参考音源)
Rachmaninoff: Piano Concerto no.2 op.18 Nobuyuki Tsujii blind pianist BBC proms - YouTube