ただのメモ。

悩みとグチと苦労と不幸と幸せは、気持ちの問題。それぞれに相関はないんだよ。

善意って期待していい?

おはようございます。keroyonです。
今日はツイッタ以上ブログ未満の呟きエントリです。

善意、いろいろありますよね。

  • お年寄りや障害者の方に、電車で席を譲るとか、
  • 道がわからなさそうな人に声をかけるとか
  • 横断歩道で歩行者のために止まるとか(これは規則です)
  • 運転中、車線変わりたい人にスペースを譲ってあげるとか。
  • 高齢者ドライバーのゆっくり運転を理解してあげるとか(煽らない。これも規則です)

 

最近、善意を受けたい方が「おれたちに配慮するのが当然じゃないの?」っていうシーンを見ることがあるんですけど。

 

もやーっとします。

 

辛いから善意を受けたい気持ちはとてもわかる。
でも、施す方にも都合がある。
施せる時も施せない時もあるように思ってて、

どちらかというと、私的には施す側に主導権があるような気がするんですよね。

だから、「施してくれないとは何事だ」って言われてもなー。

もちろん社会制度とか法律の部分は、検討すべき問題です。法律は人間ががその時よかれと作ったものだから、時代が変われば合わないところが出てくるだろうし、合わないところがあれば変えなきゃいけない。

 

でも人の気持ちはね。
怒ったって変わらないよ。
そこは切り分けるべきなんじゃない。

 

怒りたかったら怒ればいいし、それをブログなりにぶちまけるのはその人の自由。

でもそれを見せられて、いい気持ちになる人はあんまりいないと思うんだなぁ。

 

と、ネットを彷徨った雑感。

 

善意って、期待するところまでかな。
されなくて怒るとこまで行かれるとな。

期待すると、期待が裏切られた時がっかりするでしょ。

できれば期待もしない、施されたらラッキーくらいが精神衛生上いいんじゃなのかなーと。

 

本当に体が辛い時は、声に出してもらえると助かります。難しいとは思うけど。

「言えないけど察して🍀」てのは、受け取る側の能力によるので、その能力のない人に「怒り」を感じても、自分が疲弊するだけな気がしました。

声に出すのが難しければ、アラーム音みたいなものでもいいよね。
当事者じゃないから改善策は妄想です。

 

ま、表現内容についてはご自由にどうぞ。
読むかどうかは読者が決める。>自戒。

🍀万人に幸あれ🍀
Keroyon