ただのメモ。

悩みとグチと苦労と不幸と幸せは、気持ちの問題。それぞれに相関はないんだよ。

倫と利は両立するか。きっとする。…して欲しい…<渋沢栄一「論語と算盤」より>

おはよございます、keroyonです。

今、渋沢栄一の論語と算盤を読んでいます。
まだ最後まで読めてないのですが、「あー、そうそう!」と腑に落ちたところを。

 

従来、利用厚生と仁義道徳の結合がはなはだ不十分であったために「仁をなせば則ち富まず、富めば則ち仁ならず」利につけば仁に遠ざかり、義によれば利を失うというように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じたものは、仁義道徳を顧みる責任はないというようなところに立ち至らしめた。余はこの点について多年痛歎(つうたん)措く能わざるものであったが、要するにこれ後世の学者のなせる罪で、既にしばしば述べたる如く、孔孟の訓(おしえ)が「義理合一」であることは四書を一読する者の直ちに発見するところである。

私も孔子孟子の言いたいことはこころに染みるのですが、いわゆる儒学と言われる考え方には違和感があって。渋沢先生と同じように感じていたところに感銘を受けました。信じたいところを信じればいいんだね。

後世儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙げれば、宋の大儒なる朱子が孟子の序に「計を用い数を用うるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処とは天地懸絶す」ととき、貨殖功利のことをけなしている。(略)これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投じるものは仁義道徳を外にしても構わぬと言うに帰着するのである。かくの如きは決して孔孟教の骨髄ではなく、…

引用:渋沢栄一「論語と算盤」大和出版
「義理合一の信念を確立せよ」の章より。※既に絶版の本のようなので、ページ数の記載は控えます。

 

後世の学者の解釈によって、「商人は利己的でよい」だから「勝手なことをしてもいい」と世の流れがなっているのなら、悲しいことですね…。

 

だから、江戸時代も士農工商で商人が一番下だし、韓国ドラマでも商人は身分の低い人がするものと言うことになっていた。

そんな中でも、韓ドラの「キム・マンドク」や「イム・サンオク」は、人のためになる商売を行い、身を立てて伝説にまでなっている。また、私が「すごいなー」と思う方達も、自分の能力(知恵も財も)を惜しみなく人に提供し、winwinを目指しているように思える。

 

倫と利は両立する、と。私もそう信じたい。

 

これは、「金持ち父さん貧乏父さん」にもあった、

自分がほしいと思うものを人に与える。私はお金がほしいからお金をあげる。そうするとそれが何倍にもなって戻ってくる。

「金持ち父さん貧乏父さん」…私、貧乏母さんだ。 - keroyonの『精進なんてやーめた』日記

や、ヤンデル先生の、

誰かに手を貸すぜ! と叫んで回ってなんぼなのである。

「誰かに手を貸すぜ! と叫んで回ってなんぼなのである。」ヤンデル先生のブログから。 - keroyonの『精進なんてやーめた』日記

に通じるところがあるんだなぁ。

 

そして一番大切なのは、人になにかを提供するためには、自分磨きがかかせないこと。本を読むのもそうだし、いろいろな情報を得て、咀嚼して、はき出す。
自分ができるのはそこまで。評価は自分でするものではないし、間違ってなければきっと後からついてくる。(よね?)

 

なんだか努力する方向を、圧倒的に間違えてる気もしないでもないけど、できることしかできないし、できることをとりあえずしてみるだけ。

 

しかし自分でも呆れるほどノーテンキだな…。大丈夫なんだろうか。
そして、読者の皆様にはステキなステキな一週間となりますように~🍀

keroyon

 

本エントリ内で紹介した過去記事です。

www.zaihamizunogotoshi.com

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論語と算盤 (創業者を読む (1))

論語と算盤 (創業者を読む (1))

 

 

追伸:猫p(id:nkobi1121)さま。
ブコメありがとございます。ブコメでのidコールできなくなっちゃったので、ココに。「猫pさまは関西ですよね、残念ながら近くないです…w。どこで?はナイショです。すみません。狭い業界なので、回り回って芋づる式にバレそうだから…。本当に温かいお言葉をありがとございます!」