ただのメモ。

悩みとグチと苦労と不幸と幸せは、気持ちの問題。それぞれに相関はないんだよ。

「母」

こんにちは。keroyonです。
昨日、こんな書き置きをして、仕事に出かけました…。

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「母」と書くのに違和感。
私は「母」になれているのだろうか?

 

自分主義だから、人のため子どものために世話が焼けない。

家事が苦手な上、独身時代は人間より犬の方が好きな位だったから、本当は結婚しちゃいけなかったのかもと、思うこともしばしば。

 

…生物として、結婚・出産は体験してみたかったんだよね〜!?(><)。

 

だから、その選択をしてしまった義務感から、家事・仕事・物理的な育児に追われてきた。

 

お弁当だって、義務で作るだけで、お腹を膨らますだけのもの。自分の弁当は、できれば食べたくない。

 

30代はそれこそ、じいじ、ばあばに孫育てしてもらって、激しく働いてた。

 

そしてワンオペ育児。

コミュ障だから、協力をうまく得ることができず、イライラして子どもにも辛くあたってた。

 

そんな中、時代の流れと、能力のなさ、体力の限界から、だんだん仕事から見放され、今では超窓際パート。

 

そうこうしてるうちに、子ども達は大きくなり、自分の道を歩き始めてる。

 

子ども時代があんなふうでは「母」のイメージは最悪。

 

だから、自分を「母」と呼ぶのに、とても抵抗があることに気づいた。

 

私の母は健在で、表面的な関係は問題はない。
でも、母のヒステリックな声が聞こえると、私は平常心ではいられない。
ヒステリックな声を出してるのに、またその声で私がドキドキしてることも、本人は自覚がないようだ。

 

それがなにか影響してるのだろうか。

 

今の私は、時間も自覚もあるから、まあまあそれなりに「母」っぽくなってきたと思う。

これからの時間、子どもたちと良い関係を積み上げて、過去の思い出を清算できるとありがたいなあ、と思う今日この頃。

 

ふと、つれづれてみました。

 

明日も「お腹ふくらまし」弁当つくります。
そんな弁当でも、ご所望の子どもたち。本当にアリガタイなぁ。

 

こんな子どもたちに囲まれて、私は幸せ者ですね。

 

明日もぼちぼちがんぼりましょう。