おはようございます、keroyonです。
ブログを休むと決めたら、自分の心の動きがおもしろかったから、記録したくなって戻ってきちゃった。
休むって宣言したらね…、
まず、心が軽くなった。
なんだか「毎日書かなくっちゃ。必ずなにか心動くことが一日一つくらいあるはず」って、自分でも知らない間に囚われてたみたい。結構大きく解放された気が。
次にね、他の人のブログを純粋に味わえた。
自分のブログに星をつけてくれた人には、お礼参り?しないとなーなんて、義務のように巡回してたみたい。ほとんど字面だけ追って★つけてたかも。
自分のエントリがなかったら、「自分基準でOK!」だもんね。
私は★つけるだけでも、無意識にいろいろ考えてることがわかった。
そして、少し心が自由になった?
少し前に自由ネコさんから、「自由に、とは?」みたいな宿題をもらってて(勝手にそう思ってます)。禅問答みたいだったよ。
「自分の物差しで他人を測っちゃってるんだね。」ここが崩せたら本当に自由になれそう。私はまだそこまでも行けてないけど。 / “スナフキンの名言「誰かを崇拝しすぎると本当の自由は得られない」 - 自由ネコ” https://t.co/Kk4wNEHWZx
— keroyon@はてなブログ (@keroyon0001) 2018年7月30日
純粋に心を空っぽにして、他の方のエントリやツイッターを読みまくったらね、言葉の後ろの心が透けて見えてくるような気がしたのね。
後ろの心が全く見えない文章もあるし、「なにか言いたいことありそうなんだけど、もう少し丁寧に具体的に書いてくれると伝わるのになー」って文章もある。
「この人、一側面からしか見えてないんじゃないの?」っていう人もいて、
そういうのを素直に感じることができたんだよね。また自分の見えていない側面の意見を読んだりすると世界観が広がってワクワクしたりね。
例えば、少し前に賑わってたツイッターでの「#ブログ仲間募集」もね。
はじめは?欲しいよね。仲間。
初期に読者登録をしてくれた人達には、私も思い入れがあるもんな。
でも、ツイッターでフォローしあったって、相手をある程度知ってなければ絡めないのは仕方ないのでは?と私も思うんだけど、そこは「みんなノリが若いなー、若くていいなぁ」と思ったのね…、
「…当たり前じゃん。リアルにみんな、私より若いんだから」
私だってその当時?見ず知らずのお坊さんにメールで相談するくらい、右往左往してたんだった。
これ、老害の域。
静かにしとこう。
自前でノリツッコミできるくらい、心の余裕ができたってことかな。心が自由っていうのはこういうことを言うのかなぁなんて、考えていました。
とってもいい感じだから、このブログは週刊化?不定期化?
私もよくわからない。ここも私の自由ゾーンということで。
とにかく、私基準で行きます。
心をオープンにするとキズつくことも多くなると思うけど、多少のキズを楽しめるくらいの強さを目指したい。
そですね…。傷が癒えると少し耐性がつくような気もする。
— keroyon@はてなブログ (@keroyon0001) 2018年7月31日
傷つく勇気がないから、感じる幸せ(心の振れ幅)も小さいのかな。 https://t.co/shHHT1VI74
休み、大事ですね。
またまた夜中にひっそりと。
まだ夏休み中だよん。
Keroyon